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日本人クルー紹介: 荒木汰久治…

日本人クルー紹介: 荒木汰久治 氏 Vol. 01

2021.07.19

日本人クルー紹介:2007年、33才のとき初めてホクレアのハワイー日本航海プロジェクトに参加された荒木汰久治氏。彼がホクレアと出会ったきっかけ、そしてホクレアが彼に与えた人生の転機についてお話頂きました。

日本人クルー紹介:2007年、33才のとき初めてホクレアのハワイー日本航海プロジェクトに参加された荒木汰久治氏。彼がホクレアと出会ったきっかけ、そしてホクレアが彼に与えた人生の転機についてお話頂きました。

荒木汰久治 氏 (47歳) プロフィール

Kanaka沖縄 主宰

世界一過酷と言われる海峡横断パドルレース”モロカイチャレンジ(通称M2O)”にサーフスキー、カヌー、プローンパドルボード、SUP、Foilとこれまで計35回、日本人としては最多出場を誇るオーシャンアスリート。国内では1998年(当時24才)ライフセービング全日本選手権優勝から数多くの成績を残し、2015年全日本SUP選手権を(41才/史上最年長記録)で優勝した。2007年、33才のとき初めてホクレアのハワイー日本航海プロジェクトに参加。途中パラオで乗船し最終目的地の横浜までの約三ヶ月間航海した。現在は、大自然に囲まれた沖縄本島北部やんばるの海岸で子育てに奮闘中。長男・珠里(中学3年生)のトレーニングパートナーを努めると同時に、この夏日本初の海峡縦断レースO2Yを主宰する。
Kanaka沖縄 公式サイト / Kanaka沖縄 Facebook / Kanaka沖縄 Instagram /
荒木汰久治 Facebook

「ウォーターマン」との出会い ~ ホクレアに出会ったきっかけ

伝統航海カヌー「ホクレア」のことを初めて知ったのは、1998年にアスリートとして初めて『モロカイ2オアフ・パドルボード・ワールドチャンピオンシップ(通称M2O)』(以下: モロカイ・チャレンジ)に挑戦した時です。それまでもプロのアスリートとして様々なレースにでてきましたが、初めてのモロカイ・チャレンジでは日本人選手として初の完走はしたものの散々な結果でした。ゴールをした後に意気消沈しているところに、ある一人の日系人の方が私に話しかけてきました。「お前は、何でこのレースに参加したんだ?」

その時僕は「世界中の選手が、このレースに憧れを持って出ています。そんなレースで優勝して強い選手になりたいんです!」と返事をしました。モロカイ・チャレンジは海のアスリートにとってサイクリングロードレースの最高峰ツール・ド・フランスのような特別なレースです。当時モロカイ・チャレンジは「日本人には無理だ」と言われてた時代。そこで完走をし優勝ができたら強い選手として認められるのではないかと、社会人になってもその夢が諦められずに、まだ20代前半で若かった僕は98年初めてモロカイ・レースに挑んだのです。

後にホクレアと繋がるきっかけを作ってくれたこの方は、Jake水野氏といって、ハワイのサーフィンそしてカヌー界に精通したウォーターマンでした。彼はそんな僕の返事を聞いてこう言いました。「ハワイでは『世界チャンピオン = 強い』ではなんだ」。僕は頭の中が真っ白になりました。そして、その方は、「ハワイで強いと言われてる奴らを紹介してやる」と見せてくれたのが、エディ・アイカウのポスターでした。「こいつのこと知ってるか?」と言われ、「知りません」と答える僕に、その方は、エディのストーリーを教えてくれました。

その時、初めて、「ホクレア」というエンジンのないカヌーで星を頼りに何千キロも旅人達がいることを知りました。さらに、仲間を救うために海に飛び込んだホクレアクルー/伝説のライフガードであるエディ・アイカウの話をしてくれました。そして「今日お前が渡ったあの海がまさにエディが消えた場所なんだ」と教えてくれました。僕はその話を聞きながら「お前は世界チャンピオンになったらエディみたいになれるか?」と当時の僕には到底受けることができない挑戦状を叩きつけられたように感じたのです。

写真:ホクレアに乗船するエディ・アイカウ

モロカイ・チャレンジに参加したその日の夜にそんなストーリーを聞き、これまで自分が参加していた競技の距離に比べると、ホクレアが航海する地球の裏側が宇宙のように感じられました。そして競技者として自分が見ていた世界の小ささに気づいたいのです。同時に「自分が求めてきた強さ、とはなんだ」と考えました。

ハワイでは、エディみたいな海の達人のことをウォーターマン、という。当時、僕はウォーターマンという言葉を知リませんでした。そんなウォーターマンたちにどうしても会いたくなって、僕はJake氏に「そのカヌーの場所に行きたい」と伝えました。彼は承諾してくれ、僕をホノルルのサンドアイランドに連れていってくれました。そこで、初めてホクレアの航海術師のナイノア・トンプソン氏やドライドック作業中のクルーに出会い、そこから、僕とホクレアの関係がスタートしました。

その時のホクレアやクルーとの出会いから、それまで自分が求めていた『強さ』の意味が変わり、勘違いしていた自分が小さく感じたことを覚えています。

何故かモロカイ・チャレンジで優勝してからじゃないと、エディのようになれないんじゃないかと感じ、まずは、モロカイ・チャレンジでの優勝を目指しつづけよう!と強く思うようになりました。また同時にホクレアのドライドックに参加してホクレアのことをもっと学ぼうと決心したのです。モロカイ・チャレンジが大きな目標、そしてホクレアが新たな鍛錬の場になっていったのです。

それからは、日本で様々なレースに出て賞金やスポンサーを獲得してはお金を貯めてはハワイに飛ぶ、という生活を数年続けました。ハワイにいる時はレースに参加しながらも比較的時間に余裕があったので、ナイノア氏が行っていた『カプナケイキ(Kapu Na Keiki)』という教育プログラムの手伝いをしていました。カプナケイキとは、ハワイの各島から子供達を集めてホクレアでハワイ諸島間を航海しながら、航海のことやハワイ文化のことを学ぶプログラムで、そのプログラムに携わった頃から、ホクレアの航海トレーニングにも声かけてもらえるようになりました。

僕は観光ビザでしか入国できませんから、3ヶ月以内には日本に帰国してまたハワイへ飛び年間約5−6ヶ月をハワイで過ごすという生活を約9年間続けました。そして、いよいよホクレアの日本航海を迎えたのです。

ホクレアに出会った頃、僕は強さの本質の意味を分かっていませんでした。とにかくそれを探しながら必死に生計を立てていました。たくさんの国の様々なレースに参加していました。日本では「ハワイでホクレアのトレーニングを受けているんだ」と話すと、「何だそれ、よくそんな大変なことやってるな」と言われていました。ハワイの人達からは、「すごいな!がんばれ」と応援されるのに。当時、日本ではホクレアのことは知られていませんから仕方ないですよね。ホクレアの日本航海が現実となり、2007年に日本に寄港した時、仲間のみんなに「お前が言ってたのは、このことだったのか!」と言われやっと認めてもらえたような気がしました。

ホクレアは沖縄に到着後、日系移民を送り出したハワイと縁のある港に寄港したのち、鎌倉に向かいました。パドラーやサーファー仲間が鎌倉にホクレアを見に来てくれたのですが、その時の出来事が全てを変えてくれたような気がしています。

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