ホクレアが教えてくれたこと: …
ホクレアが教えてくれたこと: 池田恭子氏 Vol. 09
ハワイに暮らし、航海カヌーに関わりながら、「健やかさ(sense of wellbeing)」そしてハワイを通して見えてくるこれからの生き方について発信をしている、池田恭子氏。2007年航海直後に書いたホクレア航海回想録をお届けします。
ハワイに暮らし、航海カヌーに関わりながら、「健やかさ(sense of wellbeing)」そしてハワイを通して見えてくるこれからの生き方について発信をしている、池田恭子氏。2007年航海直後に書いたホクレア航海回想録をお届けします。
池田恭子氏 プロフィール
海の素人ではあるが、2007年のホクレア日本航海に通訳・教育プログラム担当で乗船。その経験を経て、「わたしたちの健やかさはどこからくるのか」という問いをもちながら、日本とハワイをつなぐ学びのプログラムを共創する仕事に携わる。現在はカウアイ島で子育てをしながら、大学で国際プログラムのコーディネーターの仕事をする。カウアイの航海カヌー「ナマホエ」にも家族ぐるみで関わっている。ハワイに暮らし、航海カヌーに関わりながら、「健やかさ(sense of wellbeing)」そしてハワイを通して見えてくるこれからの生き方について発信をしている。
この記事は2007年航海直後に書いたホクレア航海回想録から抜粋。
カヌーの象徴するもの
ホクレアで航海してみて、命がけで海に漕ぎ出していったハワイアンの祖先の想いを知識ではなく体験を通して想像することができた。「ご先祖を突き動かしたものと繋がる」まさにホクレアの航海はそれを可能にしてくれる。「そもそも人はなぜ海に漕ぎ出したのか」そんな確かな答えがないような問いさえも、自分を通してなぜだか分らないけど「納得できる」推測にたどり着くことができる。
気づくと、わたしが追体験し、想いを馳せた、「カヌーにのって未知の領域に漕ぎ出す」というあるグループに共有された経験とそれが育んだ価値観みたいなものは、ハワイやポリネシア文化にだけ見られるものだけではなく、1970年代以降の日本の東京という時代・風土に生まれ育ったわたしにも通じるものであった。また、ホクレアというハワイ・ポリネシア文化のシンボルが表すもの、それは、星をたよりに砂漠をわたる遊牧民のそれと根底に流れているものは同じなのかもしれないとも思えてきた。文化というシンボルを超えたところで、というより、文化という表現の源に流れているもの、それはもしかして同じものであり、それがゆえに、共有され得るのではないだろうか。人間をどこか高いところで崇高な理念で結ぶような「普遍的な(universal)価値」よりも、人間としての根源に遡った先にあるかもしれない「通底する(transversal)価値」(服部, 2007)を見つめる目。それはグローバリゼーションがあらゆるもの均一化していく傾向を下手すると加速させてしまう可能性のある、「普遍性」の希求にとってかわる、「共生」への新たな姿勢なのかもしれない。
そのような予感に導かれ、ホクレアは今年はじめてポリネシア文化圏を越えた航海にでた。そして、この航海が終わったいま、世界一周の航海の話がちらほら上がり始めている。
カヌーの象徴するもの、それは、大海原をいくカヌーは、宇宙に浮かぶ地球と同じであるということ。カヌーも地球も資源と空間は限られている。このような限られた資源・空間の中で「生き残り」そして「共生する」ためには、限られた資源を分かち合い、また綺麗事ではなく、生き残りの手段として、お互いを慈しみ、助け合うことが必要となってくる。グローバリゼーションが進み、あらゆる関係性の中で問題が悪化の一途を辿っているいま、カヌーの上で体験を通して学ぶ共生のための価値観はこの地球という宇宙に浮かぶ惑星の上での共生に役立つと感じた。
今回の航海でお姉さん的存在のPomaiに言われた言葉がある。「カヌーの上での価値観と陸の上での価値観は一貫しているものでなくてはならない。カヌーで学んだことを陸での生活に生かすことができないならば、航海に出た意味はない」と。異文化となりつつあった先祖の遠い過去の記憶を辿り、先祖の歩んできた旅を追体験することで、何千年もの歳月をかけて培われてきた知恵を取り戻し、現代にいかしていく。そのプロセスは単に過去と現在を結ぶものではなく、それは、過去と現在を未来へ向けて貫いていくものだ。
ミクロネシアという異文化からハワイは学び、また、ハワイという異文化からミクロネシアが学ぶ。過去という異文化から学び、現在、そして未来という異文化へその学びは働きかけられていく。この時間そして文化を越える学びの輪は幾重にも、そして、複雑に絡み合い、新たな文化をゆっくりと生み出していく。