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Nāmāhoe Vol.1ーカ…

Nāmāhoe Vol.1ーカウアイ島にカヌーができるまで

2021.07.19

カウアイ島にあるNamahoe(ナマホエ)という航海カヌー。カヌー建造は完成させることが唯一の目的なのではなく、その建造の意図、そしてそのプロセス自体に意味があることを教えてくれる。

カウアイ島にあるNamahoe(ナマホエ)という航海カヌー。カヌー建造は完成させることが唯一の目的なのではなく、その建造の意図、そしてそのプロセス自体に意味があることを教えてくれる。

カウアイ島には Nāmāhoe (ナマホエ)という航海カヌーがある。

1999年に建造がはじまったこのカヌーは当初の1年計画とは裏腹にゆっくり時間をかけ、試行錯誤しながら2016年の9月に進水式を迎えた。そのストーリーはカヌー建造は完成させることが唯一の目的なのではなく、その建造の意図、そしてそのプロセス自体に意味があることを教えてくれる。


Photo by Kaipo Kiaha – ‘Ōiwi TV”

ホクレアをお母さんカヌーとして1976年以降ハワイ諸島だけでなく太平洋諸島でカヌーの子供たちが誕生してきた。その中でも一番最近に生まれ、そして、一番大きなカヌー Nāmāhoe 。長さは70フィート(約21メートル)、幅は23フィート(7メートル)だ。

立ち上げのメンバーは、ホクレアの初代クルーであるジョン・クルーズ、ハワイアンのお医者さんである故パトリック・アイウ、そしてホクレアクルーのデニス・チャン。ホクレアがオアフ中心で活動をしていることから、カウアイ島の人たち、特に子供たちにも、カヌーに触れ、カヌーを通してハワイの文化や歴史、そして、カヌーが教えてくれる大切なことを学ぶ機会を作りたいという思いからカヌー建造にいたった。


左からパトリック・アイウ、ジョン・クルーズ、デニス・チャン 出典: namahoe.org

カヌーの船体がだいぶできてきたころ、メンバーたちは、そろそのこのカヌーに名前をつけなくてはと話はじめていた。だが、なかなかしっくりくる名前が見つからなかった。またその頃、立ち上げメンバーの一人であるパットさんは、持病が悪化して、なかなか作業に参加できない状況だった。ある日、みなが作業している場にパットさんが現れ、「カヌーの名前が浮かんだ」と皆に伝え、その経緯を話してくれた。

「夢の中で、僕は航海カヌーの上にいた。カヌーはオアフ島とカウアイ島を結ぶカイエイエバホ海峡にいるようだった。カヌーでは皆がハワイ語を話していて、アリイ(王族の指導者的立場の人)が話しているのが聞こえてきた。ご先祖の生きていたその時代にいるような感覚だった。そのアリイは舵取りをしている人に、『水平線に沈んでいく Nāmāhoe (ふたご座)の方角に舵をとれ』と指示をしていた。そしてこういった。『そうすればカウアイに辿り着く』と。そして目が覚めたんだ。」

「そのあとまたこの夢の続きをみたんだ。その夢ではアリイはこういった。『いつかカウアイ島にこの星( Nāmāhoe )の名前を持つカヌーが作られるだろう』って。それで目が覚めたんだ。あれ以来同じ夢をみることはなかった」

みな一瞬の沈黙の中で、このカヌーの名前がご先祖様より授けられたのを感じた。自分たちが何か大きな存在に見守られていること、大きな時の流れの中の一部であることを感じた瞬間でもあった。

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Nāmāhoe も Hōkūleʻa 同様、そのデザインはポリネシアの伝統的双胴カヌーだが、使用する材料は安全やメンテナンス等を考慮して、現在的な素材を使っている。様々なカヌーのパーツは釘などは一切使わず、伝統的なやり方でロープで繋いている。現在において伝統航海カヌーを建造するのはHōkūleʻaがきっかけとなり始まったことであり、いまとなっては経験は蓄積しているが、当時はマニュアルも、使うことができる型などもないし、建造を学べる学校もなかった。つまり、建造は素人たちが現代の船の建造技術をみようみまねで学び、またホクレアの建造・補修などから学んだ技術をあてはめながら手探りで進めていく作業であったともいえる。

カヌー作りのはじめはカヌー建造に必要な材料を購入したりするための助成金申請や寄付金集めから。そして必要なお金が集まったら、必要だと思われる道具や材料を購入。そして毎週末、みなボランティアでこつこつと作業を進めていく。時には立ち上げメンバーの数名だけで作業を進めていくこともあれば、地元の高校生やコミュニティカレッジの学生たちがボランティアで作業を手伝いに来てくれることもあった。

素人が進める作業には多々の失敗や後退があり、当初一年で建造する予定だったカヌーが、2年たち、5年たち、10年たってもなかなか形になっていかない状況が続いた。そんな中、遠ざかっていくメンバーもでてきた。小さな島では、「まだあんなカヌーつくってんのか」と馬鹿にするようなコメントする人たちも出てきた。それでも核となるメンバーは毎週末カヌーの作業に向かった。カヌーを建造することは、一生背負う責任(Kuleana)。まるで子供を生み育てるかのように、名を授かったひとつの命としてカヌーを大切に育てていく(Mālama)。親としてその責任を淡々とユーモア満載で果たしていく。

そんな核のメンバーを中心として、有機的に人が集まっては去り、集まっては去りを繰り返していった。そんな中で、Nāmāhoeに触れ、その誕生に携わった人の絶対数は少しづつ増えていった。どんなに短くとも、どんなに長くとも、その誕生に向けて携わったひとたちがこの小さな島で増えていったのだ。その多くの人にとって「土曜日にあそこにいれば、(相変わらず) Nāmāhoe の作業をしている」今日はいけなくても、またいつかそこにいけば彼らがいる。 Nāmāhoe の建造にかかった17年という年月の間に、「どんなに長い間かかわっていなくても、またそこにいけば私がやれることがある。」Nāmāhoeはそんな場・存在となっていったのかもしれない。

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