ポリネシア航海協会(PVS)が新しい航海計画を発表

ホクレアが12月にハワイに戻ってきて以来、ポリネシア航海協会(PVS)は新たなモアナヌイアケア航海計画に取り組んでいます。PVSは科学や気象の専門家、コミュニティパートナー、航海指導者と協議し、エルニーニョ現象が落ち着く来年まで主にハワイ海域で航海を行うことを決定しました。太平洋就航は2025年3月に再開し、ホクレアとヒキアナリアはハワイを出発し、はじめにポリネシアの主要な島々を目指します。

PVSのCEOであり、航海士でもあるナイノア・トンプソンは「科学の観点からではなく、49年以上航海をしてきた経験から言うと、私たちは変化する海にいるため注意を払う必要があります。」と述べています。

太平洋就航を続けることが出来る天候に回復するのを待つ間、PVSとクルーはトレーニング、州全体での業務、教育的奉仕活動、そして以下の取り組みに注力していきます。

航海トレーニング

今年、PVSはクルーと船長のトレーニングを強化し、熱帯収束帯(ITCZ)としても知られる穏やかな風帯への2回の遠洋航海を実施し、晩春または初夏に寄港する予定です。

トンプソンは、「私たちは未来の船長や航海士の戦略的な訓練地として、コンバージェンスゾーンを追加しています。ハワイは島々と風や海に及ぼす様々な理由から、特別な訓練場が網目のように張り巡らされています。私たちはこれらの島々を学校のように使えることを非常に恵まれていると考えています。」と述べています。

太平洋芸術祭

PVSとクルーは、6月に開催される太平洋芸術祭に参加し、太平洋各地から来る航海協会や指導者達と会合を行う予定です。

「このイベントに参加する何千人もの代表団は地球上で最大かつ最も偉大な国、太平洋諸島から来ます。49年間の航海の中で、私たちは自分たちが何者なのかについて多く学びました。そして私たちは最も歴史の浅い文化であることから、太平洋諸島の人々にとってまだ子供にすぎません。私たちが航海の方法を学んでいた時、彼らは私たちを家族として気遣い、島、文化、海、この地球に必要な多くのことを教えてくれました。ですから、私たちにとって最も重要なことは、彼らが故郷に帰った時に、ハワイには航海家族がいることを伝えていきたいです。私たちは彼らの到着を待っています。」

州全体の航海2024-2025

2024年-2025年の新学期が始まる時、PVSはハワイ諸島全域の学校やコミュニティと繋がるため、Pae ‘āina(州全体)の航海を開始します。この航海は、ハワイアン航空とDAWSONの寛大なサポートに支えられており、ホクレアとヒキアナリアは、約30の港を訪れます。PVSはハワイ州教育局や教育機関、コミュニティパートナーと協力して文化と持続可能性に焦点を当てた地域社会への働きかけ、カヌーツアー、教師の専門能力開発、および航海に基づくカリキュラム開発などの計画に取り組んでいます。PVSは、ハワイ各港訪問の日程と詳細が決まり次第発表します。

「2024年は故郷に戻り、地域の子供たちに目を向け、トレーニングに励み、準備を万全にする年にすべきです。また、若い人々がカヌーの舵をとる準備をする年でもあります。」とトンプソンは述べています。

モアヌイアケア号の太平洋周航を再開

2025年3月に、ホクレアとヒキアナリアはハワイを出発し、最初にアオテアロア(ニュージーランド)に向かい、途中でポリネシアの主要な島々を訪れます。4年の航海計画は以下になります。

2024-2028年モアナヌイアケア航海計画(変更の可能性あり)

2024-2025
2024年5月~6月
・熱帯収束帯(ITCZ)への遠洋トレーニング航海
2024年6月6日~16日
・太平洋芸術祭
2024年7月~2025年2月
・Pae ‘āina(州全体)の航海
2025年3月
・ハワイを出港、太平洋周航に再挑戦
2025年3月~12月
・ポリネシアの主要な島々

2026-2027
・アオテアロア(ニュージーランド)-2025年12月~2026年5月
・メラネシア、ミクロネシア、パラオの島々-2026年5月~2027年3月

2027
・アジア沿岸の主要な国々
・カヌーをカリフォルニア州ロングビーチへ輸送
・メキシコ

2028
・中南米
・ラパヌイ島でポリネシアに再入国
・ポリネシアの主要な島々
・タヒチ、タプタプアテア
・ハワイに帰港

PVSは2023年6月15日、アラスカ州ジュノーで4年間の太平洋周航のグローバルローンチを行いました。ホクレアは、45の港で先住民コミュニティ、ハワイ先住民コミュニティ、そして一般市民と交わった後、ブリティッシュ・コロンビアを南下し、ワシントン州、オレゴン州とカリフォルニア州の西海岸を航海しました。2023年12月、マウイ島での大火災の影響と、太平洋での前例のないエルニーニョ現象など予測不可能な状況であるため、ホクレアはカリフォルニア州サンディエゴから帰国しました。 航海・ホクレア号の公開イベントに関する最新情報は、ポリネシア航海協会の以下をご覧ください。

ウェブサイト:www.hokulea.com
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Instagram:@hokuleacrew

太平洋周航は推定43,000海里、36の国と群島、100近い先住民の領土、そして300以上の港を巡ります。モアナヌイアケア航海は、港での活動、教育、物語を通じて、海洋と先住民の知識の重要性を強調させる世界的な教育キャンペーンです。

航海カヌーの食

海の上での食事となると、缶詰や乾物など、限られた食材で簡素なイメージがあるかもしれませんが、航海カヌーでの食事は、とても充実しています。

ホクレアには冷蔵庫がありませんが、たとえばキャベツや玉ねぎ、じゃがいも、ニンジンなど、冷蔵なしでも日持ちする野菜はたくさんあります。リンゴやバナナ、オレンジやレモンなども冷蔵なしで全く問題ありません。

そうした野菜や果物に加えて、お米や麺類、ワカメなどの乾物などを、1日分ずつ小分けしてカヌーに積み込みます。カヌーにはプロパンガスとコンロが積んであるので、火を使った調理も可能です。限られた食材でも工夫次第でバラエティは広がり、日々いろいろな料理を楽しんでいます。ハワイでは日本食もローカル食になっているので、ご飯を炊いたり、みそ汁を作ったりするものも、カヌーの定番メニューです。

さらに航海中は海からの恵み、カツオやシイラ、サワラなど、大きな魚が釣れることもしばしばです。1日ではとても食べきれないほど大きな魚が釣れた時は、日干しにしたりするなど工夫して、無駄なく自然の恵みを頂きます。

宇宙に浮かぶカヌー

どこまでも広がる海、20メートルある大きな航海カヌーも、大海原の上では砂粒のように小さな存在です。そんなカヌーで大海原での時間を過ごしていると、自分たちの生命が何に支えられているのかを、とてもリアルに感じることができます。

海と空だけの世界、カヌーという空間がなければ生きていけないのはもちろん、そのカヌーに積み込んだ水や食料が、日々、自分たちの生命を支えてくれている。それなしでは決して生きていくことができないということを、あらためて実感します。

限られた水や食料しかない航海カヌーの上では、誰もが自然と、必要なものを必要なだけ使うようになります。水道をひねればいつでも水が出る、スーパーに行けば好きなだけ食材が手に入る、そんな普段の生活では、「水や食べ物に限りがある」ということを実感することは難しいかもしれません。けれど、地球は宇宙に浮かぶカヌー。私たちは宇宙の中で、この地球という空間なしには生きていくことができない、そしてその地球の水や食べ物に限りがあるのは、大海原を進むカヌーと同じです。

水や大地の恵みの豊かな国、日本では特にそれが感じにくいかもしれません。

なかでも水は、「湯水のように使う」という言葉があるように、日本では昔から限りなくあるもの、猛暑や雨のない日が続き「水不足」という言葉が聞かれても一過性のもの、というイメージがあるかもしれません。けれど実は、地球の「限られた水」に日本も大きな影響を与えているのです。

大量の「水輸入国」日本

「バーチャルウォーター」という言葉を聞いたことがありますか?

食料を輸入する場合に、その生産国で食料を作るのに一体どれくらいの水が必要だったかを試算したものを「バーチャルウォーター」と呼びます。たとえば日本がアメリカから1キロのトウモロコシを輸入した場合、そのトウモロコシを生産するのに、1,800リットルの水が必要になります。牛肉1キロを輸入する場合には、さらにその2,000倍もの水が必要とも言われています。

日本人の水摂取量は、飲食では1日1人あたり平均3ℓですが、農業用水では1日1人あたり3,000ℓも使っていると言われています。目に見えないところで大量に水を使っている私たち。大量生産のための極度な灌漑農業などで、世界中で深刻化する干ばつには、日本も大きな影響を与えているのです。

日本に暮らしていると、リアルには感じにくい深刻な水不足も食料不足も、世界中の水を間接的に輸入していることで実現されているものなのです。

自分たちの使う水や食料が、目に見えるところにある航海カヌーの上と違い、グローバル化する世界の中では、想像力をめいいっぱいに使わなければ、こうした地球の現状は実感しにくくなっています。自分ひとりが何をしても変化がないのではないかと感じることもあるかもしれません。

こうしたグローバルな課題を一気に解決することは難しいかもしれません。けれど、私たちが宇宙に浮かぶ大きなひとつのカヌーであることをイメージし、それぞれの場所で、できるかぎりの循環を生み出せば、その小さな循環が大きな循環につながっていくのではないでしょうか。

航海に欠かすことができないのが「水」です。
水は私たちが生きていくために、欠かすことができないもの。
航海カヌーでは、一体どんな風に水を使っているでしょうか?

1日どれくらいの水を使ってる??

みなさんは、普段、1日どれくらい水を使っていると思いますか?
航海カヌーには、水を1人1日あたり約3リットルを積んでいます。
1日あたり3リットル、多いでしょうか?少ないでしょうか? 
ちなみに、日本では1人1日あたり、平均で約300リットルもの水を使っていると言われています。
トイレを一度流すと10リットル、シャワーを1回浴びるのに60リットル、洗濯をするのには40リットルもの水を使っています。

水というと、飲んだり食べたりするイメージが強いかもしれませんが、実際に私たちが普段使っている水は、お風呂やトイレ、炊事や洗濯のために使われるのがほとんどで、食事や飲み水として私たちの身体に入るのは、たった2%ほど(3~5リットルぐらい)です。
内訳でみると、次の通り。


出典「日本の水資源 平成26年版」(国土交通省)

航海中、積み込んだ1日1人当り3リットルの水は、食事と飲み水のためだけに使うので、決して無理なく過ごすことができます。
食器を洗ったり、洗濯したり、からだを洗ったりするのには、すべて海水をくんで使います。
使った海水はすべてそのまま海に流すので、では生分解(自然に分解して海をよごさない)する特別な石けんを使っています。

*カヌーの上で水を使っている写真(ポリタンク)
*カヌーで身体を洗っている写真

水はどうやって運ぶ??

さて、1日1人当り3リットルといっても、それを人数分、さらに航海の日数分用意するとなると、かなりの量になります。航海が長引く可能性もあるので、少し多めに積む必要もあります。航海の前に、真水をポリタンクに積んで用意します。

*ポリタンク水の準備の写真

ポリタンクなどがなかった昔は、水の代わりにココナッツの実を積み込んで航海に出ていたといわれています。ココナッツの実の中には水分がたっぷり入っていて、飲み終わった後は、殻を乾燥させて燃料にすることもできます。

地球上にはどれくらいの水があるの?

「水は限られている」ということが、積み込んだ分しか水のない航海カヌーでは、とても分かりやすいです。

蛇口をひねれば水が出てくる暮らしでは、水は無限にあるように感じるかもしれませんが、地球上にある水をすべて一カ所に集めると、なんと、たったこれくらい!

上の図の大きな水の球は「海水」の量を表しています。地球上に存在する水のうち、97.5%が「海水」です。海水はそのままでは、飲み水や生活用水として利用することができません。人間が利用できる「淡水」は地球上の水の総量のたった2.5%ほど。大きな水の球の右にある小さな球がその「淡水」の量を表しています。淡水のうち約70%は、南極や北極地域の氷雪で、残りの大半は地下800mよりも深い地層にある地下水で簡単に取水することもできません。

人が実際に利用できる淡水は、地中のごく浅い所にある地下水か、川、湖、沼など地表にあるものだけ。地球全体の水でいうとたった0.02%程度、上の図の右の球の下に見える小さな点がその量を表しています。

日本人クルー紹介: 西村一広 氏 Vol. 01

西村 一広 氏 プロフィール

プロセーラー/東京海洋大学講師(海洋工学部)                                                有限会社コンパスコース 代表取締役/一般社団法人うみすばる 代表理事 
https://compasscourse.jp/

2001年のホクレアとの出会いときっかけに、2007年のホクレア日本航海をサポート。その後、2009年パルミラ環礁航海の復路にサポート艇カマヘレクルーとして、そして、2008年〜2013年には断続的にハワイ周辺海域でトレーニングに加わり、2015年ホクレア世界一周航海のインド洋横 断レグにクルーとして参加。

アメリカズカップと日本チームの敗因

世界のレーシングヨット・セーラーが勝利することを夢見る「アメリカズカップ」と呼ばれるヨットレースがあります。アメリカズカップとはその優勝杯の名前で、その歴史は1851年の英国ロンドン万博を記念して開催された、ヴィクトリア女王下賜のカップ争奪ヨットレースにさかのぼります。米国ニューヨークから遠征したアメリカ号が優勝してそのカップを米国に持ち帰り、そのカップはアメリカ号のカップ、アメリカズカップと呼ばれるようになりました。                                                               それ以降、各国のヨットクラブの間でアメリカズカップ争奪戦が行われるようになりましたが、このカップはあらゆるスポーツの国際試合で最も古い優勝杯として知られています。

このカップ争奪戦に挑戦するには、原則的にそのヨットクラブのある国で設計され、建造されたヨットに、その国のセーラーが乗ってレースをしなければならないと決めれられています。つまり、ハードもソフトも、それぞれの国が、それぞれが誇るセーリング文化と海洋文化をぶつけ合う、平和だけど、とても真剣なセーリング競争です。

アメリカズアップに、ぼくも日本チームの一員として1991年から挑戦しました。                                  しかしいいところまで行っても、どうしても勝つことはできませんでした。                              2000年のニュージーランドでのカップ争奪戦にも負けた後、自分たち日本代表の敗因を深く考えてみました。

そして見えてきたことは、アメリカズカップに勝つ国は、それぞれのセーラーが、それぞれのボートデザイナーが、それぞれのボートビルダーが、全員が、自分の国のセーリング文化や海洋文化に深い誇りを持っていることでした。

一方、日本の我々は、ヨットの設計も建造もレースのやり方も、外国人から学んだり真似したりするばかり。これについては、日本人は優秀ですから、すぐに互角になることができます。しかし小手先の技術で肩を並べるだけでは、横並びまでは行っても、勝つことはできないことに気づいていませんでした。

「アメリカズカップには、人真似しているばかりでは決して勝てない。」

自分の祖先のことを知り、その祖先たちが育んでいた海洋文化、セーリング文化を知り、そのことに矜持を持って初めて、アメリカズカップに挑戦するに相応しいセーラーになれるのだと理解しました。自分が生まれた国独自のセーリング文化と海洋文化、そしてその歴史を深く知ることもなく、ぼくはアメリカズカップに勝とうとしていたのです。

そのことに気づいて以来、日本の海洋文化について勉強を始めました。                                        日本列島に住んでいた祖先が、1万年以上も前からセーリングしていた可能性があることを知って驚きました。また、世界最古の造船用石器が日本の九州で出土していることも知って驚きました。

古い歴史を持つ沖縄のセーリング漁船サバニの乗り方を覚えたり、明治時代初期まで存在した日本起源の帆船である弁財船のレプリカで実際にセーリングしたり、わずか40年前まで東京湾に数千隻もあった小型セーリング漁船の実際の乗り方を元漁師さんに教わりに行ったりするようになりました。

今から150年前まで日本の海運を担ってきた日本起源の弁財船(べざいぶね)のレプリカ〈みちのく丸〉にも乗せてもらい、実際にステアリングしてセーリングした。全長105ft、排水量100トン、マスト高さ92ft
Photo by Kazi  写真提供:舵社
わずか40年前まで、東京湾の漁業で中心的役割を担って活躍していた日本起源のセーリング漁船「べか舟」。そのセーリング技術を次世代日本人に伝えたいと思って元漁師さんの元に通い、特訓を受けた
Photo by Kazi 写真提供/舵社

沖縄に伝わる伝統セーリング艇、サバニ。日本のヨットセーラーを中心にしたチームを組んで、沖縄で競技会に出たり、子どもたちを乗せるなどの活動を続けている。

日本人クルー紹介: 西村一広 氏 Vol. 02

西村一広 氏 プロフィール

プロセーラー/東京海洋大学講師(海洋工学部)                                                有限会社コンパスコース 代表取締役/一般社団法人うみすばる 代表理事 
https://compasscourse.jp/

2001年のホクレアとの出会いときっかけに、2007年のホクレア日本航海をサポート。その後、2009年パルミラ環礁航海の復路にサポート艇カマヘレクルーとして、そして、2008年〜2013年には断続的にハワイ周辺海域でトレーニングに加わり、2015年ホクレア世界一周航海のインド洋横 断レグにクルーとして参加。

ホクレアとの出会い

ニュージーランドでのアメリカズカップが終わった後も、ニュージーランドをベースにヨットの仕事をしていたのですが、日本の葉山に帰るたびに日本オリジナルのセーリング文化、海洋文化についての勉強を続けました。

その頃、海洋ジャーナリストの内田正洋さんを通じてタイガー・エスペリを知りました。その頃のタイガーは鎌倉に住み、日本で日本の子どもたちにハワイの海洋文化、航海文化を教えるためのカヌー「カマクラ」建造のために奔走していました。私も非常に微力ではありますが、それを手伝うことにしました。

カマクラ建造に協力することを約束してくれた日本人ヨットデザイナーと西伊豆松崎の造船所の社長をお連れして、タイガーと内田さんと一緒に2001年にハワイ島に行き、ヒロに停泊中のマカリイを見学したり、そのクルーたちに紹介されたりしました。ホクレアの日本人クルーの内野加奈子ちゃんと会ったのも、その時だったでしょうか。

そのときのハワイ行きで、初めてホクレアを見て、オアフのハワイカイからマウイのラハイナまで、ホクレアでの航海を初めて経験しました。その海は、ぼくもほとんど毎年ヨットレースで走る海で、よく知っているはずの海でしたが、近代型のレーシングヨットでの忙しいセーリングとは違って、チャンネルを静かに渡る素晴らしく神秘的な夜航海でした。

その後、ホクレアの日本航海準備に協力したり、プロの日本人セーラーとして日本国内レグの水先案内をしたりと、ある意味、淡々とホクレアとPVSと関わってきました。ホクレアの日本航海が終わった後は、ポマイラ環礁からオアフ島METCへの帰りの航海(この航海はサポート艇カマヘレに乗艇)や、後の世界一周航海のクルーになるためのハワイ周辺海域での複数回のトレーニングや、インド洋横断レグに乗せてもらいました。多くのクルーの皆さんと同様、素晴らしい体験をさせてもらいました。

その中で、最も印象に残っていることは、航海中のことではありません。前回のホクレアの日本航海で水先案内として関わっていたときの、広島での出来事です。

広島の観音マリーナにホクレアが停泊中のある日、ナイノアから、「元安川を遡って原爆ドームの前までホクレアを曳航することはできないだろうか?」と相談されました。原爆ドームの前にホクレアが浮かび、セールを開く。その光景が目に浮かび、ナイノアだけでなく、ホクレアのリーダーチームも、ぼくも、大変興奮しました。いくつかある橋の下をくぐる時の高さがマストを倒したホクレアが通れる高さか? 川の水深は充分か? などをつぶさに調べた結果、潮時を選べば実現可能、ということになりました。

それでナイノアがクルー全員にこの計画を伝えました。私はみんなが大賛成して喜ぶものだと決めつけて、それを聞いていました。

ところが、若いクルーの一人が、「それは本当に日本の人たち全員が望むことだろうか? 喜んでくれるだろうか? これをやる前にちゃんと日本のたくさんの人たちに意見を聞いてみなければいけないのではないか?」と発言したのです。

その発言でぼくは初めて、この行動が「政治的」意味合いを含んでしまうことに気が付きました。ドキンとしました。常々ホクレアを政治的なことには使わないと決めていたナイノアも即座にそれで気がついたようです。

それはとても長いミーティングになりました。そしてその若いクルーの、広い視野を持ったこの発言のおかげで、この計画は中止と決定されました。

人生経験が長いはずの私たち世代が、若い世代に、危ないところで救われたのです。そのことに、今でも大変感謝しています。また、若い世代に教えられることに、深い喜びがあることも知りました。

ホクレアの活動と航海は、こういうしっかりした考え方ができる、ハワイが誇るべき若い世代を育てることができるのだと知りました。

自分たち自身の文化に矜持を持つ新世代を、海と航海で正しく育てることは、決して国粋主義者を産むのではなく、他者の文化にも同様の敬意を払うことができる、広い視野を持つ新世代を育てることにつながっていく。

これはもう、本当に、ぼくがホクレアから学んだ最も大きなことです。

ぼくの世代の日本人には特に、かもしれませんが、若い世代の意見を軽んじる傾向があり、年配者が自分たちの意見を年少者に押し付けることがよくあります。ぼくの周囲にもそのような同世代がたくさんいます。そういう人たちが、ぼくが広島で、ホクレアで経験したのと同じような、目が覚めるような経験をさせてあげたいな、と思います。

広島に入港する前に、その向かい側に浮かぶ宮島の海岸に建つ厳島神社の前に、わずかな時間でしたがホクレアを止めました。(*写真提供:西村一広)
最終目的地の横浜に向かう前日、相模湾奥の鎌倉・七里ヶ浜沖にアンカリングしたホクレア。たくさんのサーファーとパドラーに迎えられました。七里ヶ浜は生前のタイガー・エスペリが住んでいたところ。(*写真提供:西村一広)

日本人クルー紹介: 西村一広 氏 Vol. 03

西村 一広 氏 プロフィール

プロセーラー/東京海洋大学講師(海洋工学部)                                                有限会社コンパスコース 代表取締役/一般社団法人うみすばる 代表理事 
https://compasscourse.jp/

2001年のホクレアとの出会いときっかけに、2007年のホクレア日本航海をサポート。その後、2009年パルミラ環礁航海の復路にサポート艇カマヘレクルーとして、そして、2008年〜2013年には断続的にハワイ周辺海域でトレーニングに加わり、2015年ホクレア世界一周航海のインド洋横 断レグにクルーとして参加。

ホクレアそして今

広島で思慮深い考えを持つ若者たちの内面に触れて強く感銘を受け、ホクレアの航海が、自分たちの文化と民族の誇りを次世代ハワイ人たちに思い出させるだけでなく、他の文化まで敬うような、深みある思慮を持つ人間にもさせるチカラがあることを知りました。

広島でのことは深く心に染み入り、本来ぼくが日本でやりたいと考えていた、「次世代たちに日本オリジナルの海洋文化のことを知ってもらう」活動をするにあたり、ホクレアでの実習・伝統航海術の継承や伝統航海カヌー(ホクレアを含む)修繕・教育プログラムなど、ポリネシア航海協会(Polynesian Voyaging Society)が行なっている海洋実習についてもっと深く知りたい、それを日本での自分たちの活動に生かしたい、と考えるようになりました。そうして、それを学ぶために、ぼくのポリネシア航海協会とホクレア通いが始まりました。

そのハワイ通いの初期の頃には、つい先日亡くなってしまった伝統航海術師のカレパ・ババヤンのハワイ島の家に泊めてもらいながら、ハワイ大学ヒロ校にあるカレパの研修教室にも毎日島を横断して通わせてもらったりしました。

ホクレアに関わりながら、同時に、本来の自分自身の活動(日本の次世代たちに、セーリングを体験してもらうこと、海を好きになってもらうこと、日本オリジナルの海洋文化に興味を持ってもらうこと、アメリカズカップの日本チームを応援してくれること、自分自身でアメリカズカップを目指すようになること、)を、仕事とは別に、一般社団法人うみすばるという法人を作って続けています。

日本人が設計して日本人が造った、日本オリジナルの小型ヨット10隻を使って、親子でセーリングを体験してもらう活動を、同じ夢を持つ人たちと一緒に、2005年に始めました。この活動では、これまでに5000人以上の人たちにセーリングを体験してもらうことができました。日本人を対象に始めたつもりでしたが、このセーリング体験教室には、日本在住や旅行中の外国人たち(ヨーロッパの国の人、台湾の人、中国の人、韓国の人、など)もごく自然にやってくるようになりました。どの国の人たちも皆楽しそうで、帰るときにはきちんとお礼を言ってくれます。ヨットの上にも周囲の海にも、とても平和な空気が流れていて、うれしいものです。今は新型コロナ感染の影響で活動を自粛していますが、早く再開したいと思っています。

4年前からは、東京都港区立の小中一貫校でセーリングヨット部の監督を任されるようになりました。この学園での部活は、大都市東京の中の、とても狭い海での活動ですが、レースに勝つためのセーリング技術ではなく、子どもたちが大自然とつながりを持つための技術としてのセーリングを伝えるようにしています。このことに加えて、日本オリジナルのセーリング文化や海洋文化について学ぶ場にすることにも軸足を置いています。日本の、小さな、小さなMETC(ホクレアの母港にある、航海カヌーの修復や教育プログラムを提供する海洋トレーニングセンター)のつもりです。

ホクレアが日本に来たとき、ここにも立ち寄ってくれればうれしいなあ。

Photo & mark up by Kazu Nishimura
東京都港区立お台場学園のセーリングヨット部の部員と指導者たち。この写真を撮ったときは部員8名でしたが、今年は部員数が一気に18名に増えました。この部活があるからという理由で、この学園に入学した生徒がいます。うれしいことです。
Photo by Kazi 写真提供:舵社
ビルの谷間を通り抜けてくる風が吹く都会の海は、広い海よりも風を見るのが大変ですが、子どもたちはそれにも順応していきます。すごいものです。はやく広い海で思いっきりセーリングさせたあげたいと願っています。
Photo by Kazi 写真提供:舵社
これは、富士山の麓の湖畔のキャンプ場での、わたしたちのセーリング体験イベントの様子。キャンプ場主催の数々のワークショップの中で一番人気のプログラムになりました。
Photo by Mammoth camp 写真提供:マンモスハローキャンプ

サポート ・ 寄付

ミッション

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航海を通じて、人々が自分自身を、お互いを、そして、自然やそこに根付く文化に敬意を持ち、思いやる心を育み、この地球がより持続的で暮らしやすい場所になるきっかけ作りに努めています。

伝統航海術の芸術と科学、そして探求する心を継承し、体験型の教育プログラムを通して、自然、文化に敬意をはらい、互いにいたわり合う大切さを次世代に伝えることを使命としています。

ビジョン

https://d2znjoo7p8l5rk.cloudfront.net/photo_zoom/news/4508/20111311273410700.jpg
“Hawai‘i, our special island home, is a place where the land and sea are cared for, and people and communities are healthy and safe.”

ハワイという特別な島は、私たちにとっての故郷であり、大地と海が守られ、人々が健やかに安心して暮らせる場所です。私たちは自然の力だけを使った伝統航海を通じて、地球という”島”への敬意やいたわりの心を育み、分かち合い、学び合い、グローバルな関係を築くことで、自然と調和のとれた持続可能な世界の実現を目指しています。”

基本理念

Mālama(マラマ):思いやり、いたわり
Aloha(アロハ):愛
‘Imi ‘Ike(イミ・イケ):知恵の探求
Lokomaika‘i(ロコマイカイ):分かち合い
Na’au Pono(ナアウ・ポノ):調和の心
Olakino Maika‘i(オラキノ・マイカイ):健やかさ

クルー・関係者からのメッセージ

伝統航海カヌー「ホクレア」「ヒキアナリア」は現在、世界46カ国、全345カ所をめぐりながら、太平洋を一周する環太平洋航海を計画しています。北米アラスカから、アメリカ大陸沿岸、タヒチ、ニュージーランド、太平洋諸島、さらに北上して日本へも寄港する計画です。約3年半に渡るこの環太平洋航海を通じて、地球という「カヌー」の舵を握る「航海師」である、私たちひとりひとり、世界各地のコミュニティ、そして次世代リーダーたちのグローバルネットワークを築き、自然との調和がとれた持続的な次世代社会の実現を目指します。

ご支援の使い道

ポリネシア航海協会は米国政府認定の非営利団体で、伝統航海カヌーの修繕作業や教育プログラムの実施などは、すべて数多くのボランティアの力と皆さまからの寄付金によって運営されています。皆さまからの寄付金は、次の環太平洋航海をより安全に実現し、世界中にメッセージを発信するために使わせて頂きます。ご協力を何卒よろしくお願いいたします。

日本人クルー紹介: 荒木汰久治 氏 Vol. 01

荒木汰久治 氏 (47歳) プロフィール

Kanaka沖縄 主宰

世界一過酷と言われる海峡横断パドルレース”モロカイチャレンジ(通称M2O)”にサーフスキー、カヌー、プローンパドルボード、SUP、Foilとこれまで計35回、日本人としては最多出場を誇るオーシャンアスリート。国内では1998年(当時24才)ライフセービング全日本選手権優勝から数多くの成績を残し、2015年全日本SUP選手権を(41才/史上最年長記録)で優勝した。2007年、33才のとき初めてホクレアのハワイー日本航海プロジェクトに参加。途中パラオで乗船し最終目的地の横浜までの約三ヶ月間航海した。現在は、大自然に囲まれた沖縄本島北部やんばるの海岸で子育てに奮闘中。長男・珠里(中学3年生)のトレーニングパートナーを努めると同時に、この夏日本初の海峡縦断レースO2Yを主宰する。
Kanaka沖縄 公式サイト / Kanaka沖縄 Facebook / Kanaka沖縄 Instagram /
荒木汰久治 Facebook

「ウォーターマン」との出会い ~ ホクレアに出会ったきっかけ

伝統航海カヌー「ホクレア」のことを初めて知ったのは、1998年にアスリートとして初めて『モロカイ2オアフ・パドルボード・ワールドチャンピオンシップ(通称M2O)』(以下: モロカイ・チャレンジ)に挑戦した時です。それまでもプロのアスリートとして様々なレースにでてきましたが、初めてのモロカイ・チャレンジでは日本人選手として初の完走はしたものの散々な結果でした。ゴールをした後に意気消沈しているところに、ある一人の日系人の方が私に話しかけてきました。「お前は、何でこのレースに参加したんだ?」

その時僕は「世界中の選手が、このレースに憧れを持って出ています。そんなレースで優勝して強い選手になりたいんです!」と返事をしました。モロカイ・チャレンジは海のアスリートにとってサイクリングロードレースの最高峰ツール・ド・フランスのような特別なレースです。当時モロカイ・チャレンジは「日本人には無理だ」と言われてた時代。そこで完走をし優勝ができたら強い選手として認められるのではないかと、社会人になってもその夢が諦められずに、まだ20代前半で若かった僕は98年初めてモロカイ・レースに挑んだのです。

後にホクレアと繋がるきっかけを作ってくれたこの方は、Jake水野氏といって、ハワイのサーフィンそしてカヌー界に精通したウォーターマンでした。彼はそんな僕の返事を聞いてこう言いました。「ハワイでは『世界チャンピオン = 強い』ではなんだ」。僕は頭の中が真っ白になりました。そして、その方は、「ハワイで強いと言われてる奴らを紹介してやる」と見せてくれたのが、エディ・アイカウのポスターでした。「こいつのこと知ってるか?」と言われ、「知りません」と答える僕に、その方は、エディのストーリーを教えてくれました。

その時、初めて、「ホクレア」というエンジンのないカヌーで星を頼りに何千キロも旅人達がいることを知りました。さらに、仲間を救うために海に飛び込んだホクレアクルー/伝説のライフガードであるエディ・アイカウの話をしてくれました。そして「今日お前が渡ったあの海がまさにエディが消えた場所なんだ」と教えてくれました。僕はその話を聞きながら「お前は世界チャンピオンになったらエディみたいになれるか?」と当時の僕には到底受けることができない挑戦状を叩きつけられたように感じたのです。

写真:ホクレアに乗船するエディ・アイカウ

モロカイ・チャレンジに参加したその日の夜にそんなストーリーを聞き、これまで自分が参加していた競技の距離に比べると、ホクレアが航海する地球の裏側が宇宙のように感じられました。そして競技者として自分が見ていた世界の小ささに気づいたいのです。同時に「自分が求めてきた強さ、とはなんだ」と考えました。

ハワイでは、エディみたいな海の達人のことをウォーターマン、という。当時、僕はウォーターマンという言葉を知リませんでした。そんなウォーターマンたちにどうしても会いたくなって、僕はJake氏に「そのカヌーの場所に行きたい」と伝えました。彼は承諾してくれ、僕をホノルルのサンドアイランドに連れていってくれました。そこで、初めてホクレアの航海術師のナイノア・トンプソン氏やドライドック作業中のクルーに出会い、そこから、僕とホクレアの関係がスタートしました。

その時のホクレアやクルーとの出会いから、それまで自分が求めていた『強さ』の意味が変わり、勘違いしていた自分が小さく感じたことを覚えています。

何故かモロカイ・チャレンジで優勝してからじゃないと、エディのようになれないんじゃないかと感じ、まずは、モロカイ・チャレンジでの優勝を目指しつづけよう!と強く思うようになりました。また同時にホクレアのドライドックに参加してホクレアのことをもっと学ぼうと決心したのです。モロカイ・チャレンジが大きな目標、そしてホクレアが新たな鍛錬の場になっていったのです。

それからは、日本で様々なレースに出て賞金やスポンサーを獲得してはお金を貯めてはハワイに飛ぶ、という生活を数年続けました。ハワイにいる時はレースに参加しながらも比較的時間に余裕があったので、ナイノア氏が行っていた『カプナケイキ(Kapu Na Keiki)』という教育プログラムの手伝いをしていました。カプナケイキとは、ハワイの各島から子供達を集めてホクレアでハワイ諸島間を航海しながら、航海のことやハワイ文化のことを学ぶプログラムで、そのプログラムに携わった頃から、ホクレアの航海トレーニングにも声かけてもらえるようになりました。

僕は観光ビザでしか入国できませんから、3ヶ月以内には日本に帰国してまたハワイへ飛び年間約5−6ヶ月をハワイで過ごすという生活を約9年間続けました。そして、いよいよホクレアの日本航海を迎えたのです。

ホクレアに出会った頃、僕は強さの本質の意味を分かっていませんでした。とにかくそれを探しながら必死に生計を立てていました。たくさんの国の様々なレースに参加していました。日本では「ハワイでホクレアのトレーニングを受けているんだ」と話すと、「何だそれ、よくそんな大変なことやってるな」と言われていました。ハワイの人達からは、「すごいな!がんばれ」と応援されるのに。当時、日本ではホクレアのことは知られていませんから仕方ないですよね。ホクレアの日本航海が現実となり、2007年に日本に寄港した時、仲間のみんなに「お前が言ってたのは、このことだったのか!」と言われやっと認めてもらえたような気がしました。

ホクレアは沖縄に到着後、日系移民を送り出したハワイと縁のある港に寄港したのち、鎌倉に向かいました。パドラーやサーファー仲間が鎌倉にホクレアを見に来てくれたのですが、その時の出来事が全てを変えてくれたような気がしています。

日本人クルー紹介: 荒木汰久治 氏 Vol. 02

荒木汰久治(あらきたくじ)氏 47才 プロフィール

Kanaka沖縄 主宰

世界一過酷と言われる海峡横断パドルレース”モロカイチャレンジ(通称M2O)”にサーフスキー、カヌー、プローンパドルボード、SUP、Foilとこれまで計35回、日本人としては最多出場を誇るオーシャンアスリート。国内では1998年(当時24才)ライフセービング全日本選手権優勝から数多くの成績を残し、2015年全日本SUP選手権を(41才/史上最年長記録)で優勝した。2007年、33才のとき初めてホクレア号ハワイー日本航海プロジェクトに参加。途中パラオで乗船し最終目的地の横浜までの約三ヶ月間航海した。現在は、大自然に囲まれた沖縄本島北部やんばるの海岸で子育てに奮闘中。長男・珠里(中学3年生)のトレーニングパートナーを努めると同時に、この夏日本初の海峡縦断レースO2Yを主宰する。
Kanaka沖縄 公式サイト / Kanaka沖縄 Facebook / Kanaka沖縄 Instagram /
荒木汰久治 Facebook

ホクレアと日本の海

日本という国は縦社会で、スポーツ界もそうなんですね。若い時からライフガードをやっていましたが、ボード上では正座をして漕ぐ決まりがあります。一度、立ってサーフィンをしたら、先輩にぶん殴られたことがありました。ハワイのライフガードは立っても何してもいいのに、日本だと不届き者として扱われる。さらに、海で遊ぶ人達は、サーファー、ライフガード、パドラーというグループに半強制的に分かれてしまっていて、横に繋がることが難しい雰囲気がありました。

でも、ホクレアが鎌倉に来た時に、普段だったら集まらないサーファー、ライフガード、パドラーのみんなが来てくれたのです。その時に僕が、「ホクレアのカタマラン(二つの船体)の下を潜って海中からホクレアを見上げたらすごくきれいですよ」と伝えたら、みんなが次々にそうして…。そして、ホクレアの下を通り抜けて反対側に出た時に、みんなが輪になって集まっていたんです。みんなが感動していることが分かりました。その時に僕は今までバラバラだったものが、一つに繋がった気がしたのです。

写真:ホクレア七里ヶ浜沖(写真:琢磨仁)

もう一つ、ハワイそしてホクレアが日本に残してくれた大切なことがあります。それが「ウォーターマン」という文化です。モロカイ・チャレンジでチャンピオンになるためにはサーフィンやパドル、セーリングなどいろいろな競技をクロスオーバーしながら外洋でトレーニングすることが必要になります。そうすることで潮流や風向き、自然環境の変化を常に感じ取れるようになります。でも以前の日本では、トレーニングのために岸から遠く離れたとこまで行くと、「危険だ!」と言われたり、「サメが出たらどうするんだ!」と注意されていました。でも、サメは普通にいますし、怖いけれど練習しないと強くなれないし….、そういうことをなかなか理解してもらえませんでした。ハワイのレースでは、鯨の上に乗っかってしまったこともあるし、クジラに跳ね飛ばされて骨折した人もいます。そういう世界つまり人間の領域ではない海の世界が存在していて、それを理解して闘っている、それがハワイのウォーターマンの世界なのです。

ホクレアが鎌倉に来たことで、日本の海の社会で何かが大きく変わり始めまたように感じました。ウォーターマンという言葉を理解する人が増えました。今の後輩達は恵まれていると思います。昔は、「危険だからやめろ!」と言われてたことができるようになり、人間の領域ではない海でトレーニングをすることができるようになりました。僕は、これこそホクレアが日本に持ってきてくれた文化だと思っています。

写真:ホクレア沖縄に到着

日本人クルー紹介: 荒木汰久治 氏 Vol. 03

荒木汰久治(あらきたくじ)氏 47才 プロフィール

Kanaka沖縄 主宰

世界一過酷と言われる海峡横断パドルレース”モロカイチャレンジ(通称M2O)”にサーフスキー、カヌー、プローンパドルボード、SUP、Foilとこれまで計35回、日本人としては最多出場を誇るオーシャンアスリート。国内では1998年(当時24才)ライフセービング全日本選手権優勝から数多くの成績を残し、2015年全日本SUP選手権を(41才/史上最年長記録)で優勝した。2007年、33才のとき初めてホクレアのハワイー日本航海プロジェクトに参加。途中パラオで乗船し最終目的地の横浜までの約三ヶ月間航海した。現在は、大自然に囲まれた沖縄本島北部やんばるの海岸で子育てに奮闘中。長男・珠里(中学3年生)のトレーニングパートナーを努めると同時に、この夏日本初の海峡縦断レースO2Yを主宰する。
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ホクレアから受け継ぐウォーターマン精神

「子育て」かなと思います。もちろん、我が子もそうだけど、人の子にも同じように大切なことを伝えていくということ。そして、海と共に暮らすことでしょうか。先ほどいったカプナケイキ(Kapu Na Keiki)というホクレアの教育プログラムでは、ハワイ島までこどもたちと航海をして、その後コアの原生林の山に登って植樹をしたりしました。そこで航海術師のナイノア・トンプソン氏が子供たちになぜカヌーを作れるくらいの大きなコアの木がハワイにもう存在しないのか話をしたり、ハワイアンの人たちの土地の権利がよそから来た人たちによって奪われていった歴史について伝える姿を目にしました。また、失われかけた伝統航海術やカヌー文化を復活させようとするホクレアの歴史やホクレアがハワイの人たちに生きる力を与えてきたことに非常に心動かされました。僕はホクレアのクルーみなが大切なことを残そう、または、取り戻そうという共通の価値観を持っていることに触れ、「自分もこういう生き方をしよう」と強く思ったんです。それがホクレアに関わった上での一番の収穫だったと思うんです。

写真:沖縄の自宅前の海で

そして、地に足をついた生活をしようと選んだ地がここ沖縄です。僕は父の仕事の関係で転校生として3年以上同じ場所に住んだことがなかったんです。だから故郷はどこですか、と言われてもずっと答えられなかった。でもいまは沖縄に住んで20年になるので、沖縄がいってみれば僕にとっての初めての故郷、子育ての場所となりました。ただ、ご先祖が眠るお墓は熊本なので毎年夏休みには家族を連れてお墓参りにいっています。そして、自分が死んだら、お骨になったら熊本に帰るということを大事にしています。ただ、死ぬ瞬間まで生きる場所は沖縄だと思っています。


写真:自宅裏のカジュマルの御神木(写真:BLADE編集部)


写真:畑で娘と一緒に(写真:BLADE編集部)

この間祖母がなくなり、その5年前には祖父が亡くなりました。その時にお骨の一部を家の目の前の海に散骨しました。それも天気のいい日に子供たちと一緒にサーフィンをしながら。そうすると、この海にも祖父が眠っているとみんな実感することができるんです。お墓は熊本にあっても、祖先はこの沖縄の海にも眠っているし、しいては、海はすべてつながっているので、どの海にいてもご先祖とのつながりを感じることができるんです。もちろん、自分が死んだら僕のお骨の一部もこの沖縄の海に眠ります。

僕の息子は海で何度か大波にまかれて溺れかけたり、サメに何度も遭遇したりという経験をしているんですが、そいういう時に心のよりどころが海にあるというのはとても大切なんです。息子がはじめてモロカイレースにでたときも、モロカイ島からオアフ島をみながら、「ここにもじいちゃんいるから大丈夫だよ」っていってたんですよ。それはものすごい心の支えだとおもうんですよね。

まだ僕には先ほどもお話したカプナケイキというホクレアの教育プログラムみたいな大きなことはできませんが、まずここ沖縄で自分の家族と自分の家族の仲間たちと、この海で遊びながら、子供を育てていく。それが今の自分にできることだと思っています。

そしてこの沖縄の海でトレーニングして、ハワイで勝負する。20年前は絶対に無理といわれていたモロカイ・チャレンジの日本人の入賞・優勝ですが、いま息子がそこにとても近い場所にいる。僕はもう年齢的にも厳しいと思うんですが、息子に夢を託して、息子と一緒にモロカイでチャンピオンになることを目指しています。

もし来年息子が16歳で表彰台に立つことができたら、きっとその時は「この日本人は何者で、どんなトレーニングをしてきたのか」って世界中のアスリートが知りたくなると思うんです。その時に、ホクレアで学んだこと、ハワイの人たちから学んできたことのおかげで沖縄での暮らしや「子育て」があり、そしてその成果としての結果であることを感謝の気持ちをもって伝えたいんです。

それが1998年に聞かれた「お前ならいけるか」「ウォーターマンとしての本当の強さとは」の僕なりの現在進行中の模索とその答えなのかなと思っています。そしていつか自信をもって「おかげでここまで成長・強くなることができました」といえるように、ハワイの人から教えてもらった大切なこと、そして恩を次の世代に繋いでいきたいとおもっています。そして、それがハワイの人たちに恩を返すことだと思っています。

いま日本には僕の息子の背中を追って頑張っている子供たちがたくさんいます。息子がいろんな大会で優勝をしたりすることで「同じ沖縄に住んでいるからこういう練習させてたいな」と共感してくれたり、「これまでは危ないと言われてきたことでもやってみようかな」という親御さんたちも増えてきています。そういう意味では日本人のウォーターマンが増えてきているのだと思います。またそういう「海の子育てをしたい」親が増えていくこと。それが今の一番の自分の生きがいです。

日本人クルー紹介: Saki Yamamoto-Uchida氏 Vol. 01

Saki Yamamoto-Uchida 氏 プロフィール

2008年にホクレアに導かれハワイに渡り伝統航海術を学ぶ。2008年から2011年は航海・ナビゲーショントレーニングでハワイの島々を航海した後、2012年にヒキアナリア処女航海でニュージーランドータヒチーハワイ航海を経験。その後ホクレアの世界一周航海に参加。現在はニュージーランドで子育てをしながら、ニュージーランドの伝統航海カヌープロジェクトに参加している。自然豊かで、家族が祖先代々住んできた土地に住み、マラエ(マオリの集会所といわれる建物)を見守りながら、今よりもいいものを次世代に残せるように、持続可能な生活をしている。インスタグラム@sakiuchida

私とホクレアとの出会い

私が初めてハワイの伝統航海カヌーホクレアと出会ったのは2007年、高校3年生の春だった。当時、周りはみんな進路を決めていて、私も沖縄の大学に行きたいと思っていた。

そんな時、父が私に「ホクレアっていうカヌーがハワイから来た。見に来いよ。」と教えてくれた。それまでもホクレアという名前は父や母から度々聞いたことがあったし、私がまだ小学生の時、ホクレアの航海術師のナイノア・トンプソンがうちに来たこともあった。父が親しくしていたハワイ人のおじさん、タイガー・エスペリもホクレアのクルーだった。

でも特に興味を持つということはなくて、父が何かカヌーのことをしているなぁぐらいの認識だった。今おもうとちょうどその頃の私は、進路は決めていたけど、どこかで引っかかった気持ちがあったのだと思う。

物心つく前から海は当たり前のように私の生活の中にいてくれた。一人でも海で遊んでいたのを覚えている。だから年中肌は焼けていて、子供の頃はよく友達にいじられたけど、正直全然気にならなかった。焼けているほうがかっこいいとさえ思っていた。

海が大好き。生涯海に関わることがしたい。それはずっと心の中にあったけれど、どうやって関わりたいのかがはっきりしなかった。海のスポーツも、生き物も、浜辺で拾うものもなんでも好きだった。だからとりあえず沖縄で海洋生物について学べる大学に行こうと思っていた。

父からホクレアは自然を頼りに、コンパスもGPSも使わずにここ、日本まで来たと聞いた時、かっこいい!!!そんなことができるんだ。ワクワクが止まらなくて、どうしても見たい!と思ったのを覚えている。

そして、大学進学には欠かせない前期の試験を全てすっぽかし、(私は怒られると思って、先生にも言わずに行ったと思っていたけど、実は母がちゃんと先生に伝えていてくれて、先生はそれは行った方がいいと応援してくれたことを後から知った。私はホクレアが寄港している宇和島に一人で向かった。宇和島で出会ったホクレアは私が思ったよりも小さかった。このカヌーに十数人のクルーを乗せて、大海原を越えてここまで来たんだと思うと、かっこいいという言葉ばかりが出た。

クルーたちはみんなスーパーヒーローのように見えた。その頃はホクレアの背景もハワイの歴史も全く知らなかったから、そんな単純な言葉しか私の頭にはなかった。そこから確か一週間くらいホクレアの周りをうろちょろさせてもらった。夜はホクレアの上で寝かせてもらった。

それからホクレアは次の寄港地を目指してまた旅へ出た。私は神奈川の実家に帰って、また学校に戻った。みんなからはテストサボってどこ行ってたの?とか言われたけど、なんか上の空だった。それから何日か経って、ホクレアがうちの前を通り過ぎて横須賀に寄港すると聞いたから会いに行ったら、なんとそこから私も乗船させてもらえることになった。

家に戻って、防水のダッフルバッグになんか適当に詰めて乗り込んだ。日本語も話せるクルーに通訳してもらいながら、できることを手伝った。なんと向かった先は鎌倉の七里ヶ浜。そこはタイガーが生前住んでいた場所でもあったから、彼の追悼のためにホクレアは向かった。そしてそこは偶然にも私が通っていた学校のまん前だった。母が先生と話してるとは知らなかった私は、また学校をサボっているのに、学校の前に来てしまってやばいと心の中で思っていたが、着いたときにはそんなことを忘れて、クルーと一緒に海に飛び込んでホクレアの下を泳いでいた。海の中から見たホクレアには海中の光が集まっているみたいに見えた。そのあとは横浜、最終寄港地へ向かった。

もう15年近く前のことだけど、ホクレアで初めて海に出た時に思ったのは、なんか懐かしい。そんな気持ちになったこと。とても居心地が良かった。もうそのときには、直感でナビゲーターになりたい!と思ってしまっていたのだと思う。そして、最後に着いた横浜で、ナイノアに、「ナビゲーションを勉強したいです。どうすればいいですか?」と誰かに教えてもらった英語で伝えた。そして彼は「うーん、そうだね、だったらハワイに来るしかないよ。」と言った。翌年の2008年に私は高校を卒業し、ハワイへ渡った。

日本人クルー紹介: Saki Yamamoto-Uchida氏 Vol. 02

Saki Yamamoto-Uchida 氏 プロフィール

2008年にホクレアに導かれハワイに渡り伝統航海術を学ぶ。2008年から2011年は航海・ナビゲーショントレーニングでハワイの島々を航海した後、2012年にヒキアナリア処女航海でニュージーランドータヒチーハワイ航海を経験。その後ホクレアの世界一周航海に参加。現在はニュージーランドで子育てをしながら、ニュージーランドの伝統航海カヌープロジェクトに参加している。自然豊かで、家族が祖先代々住んできた土地に住み、マラエ(マオリの集会所といわれる建物)を見守りながら、今よりもいいものを次世代に残せるように、持続可能な生活をしている。インスタグラム@sakiuchida

写真:へケヌクマイ・バスビー氏が建造したアオテアロア(ニュージーランド)の伝統航海カヌー、ナヒラカ・マイ・タフィティにて家族と。

カプ・ナ・ケイキ 〜 子どもたちは神聖

ハワイに着いて、初めてホクレアの母港であるサンドアイランドに行った時のことはよく覚えている。ポリネシア航海協会に電話して、聞き取れたことは、何かの集まりがあり、それがサンドアイランドであるということ。日時もギリギリ聞き取れ、何があるのかはよくわからなかったけど、とりあえず行ってみることにした。当時はまだ大学でESOL(英語が母国語でない生徒がとる授業)を受けているぐらい。地元の友達もいなく、ハワイの地理感もなかった。サーフィンを始めるために買ったモペッド(原付)が私の移動手段だったので、地図をプリントして、なんとかたどり着いた。

着いても、結局ナイノアが何を喋っているのかも、みんなが何を議論しているのかもさっぱり。ただ、ホクレアでカウアイ島まで行くということがわかった。そして、私と同じくらいの年の子達がナイノアからナビゲーションを学んでいるユースグループがあり、その仲間に入れてもらえることになった。カプ・ナ・ケイキ。と呼ばれているグループだ。ハワイ語で「子供たちは神聖」と言う意味で、ナイノアのお父さんがくれた名だった。みんなハワイ人でハワイで生まれ育っている子達だった。彼らが喋っていることももちろんさっぱり。ただ、一緒にカウアイ島に行こうみたいなことを言ってくれた。

帰る頃には、もう日も落ちていた。もちろんモペッドに乗って帰ろうとすると、みんながすごくびっくりしていて、「これでここまで来たの?クレイジーだ!」みたいなことを言われた。サンドアイランドはあんまり治安がいい場所ではなかったようだ。そんなことも知らなかった。みんながトラックの荷台にモペッドを乗せてくれて、家まで送ってくれた。今でもみんなでその時の笑い話をする。

写真:2009年にカプ・ナ・ケイキの仲間とモロカイ島へ航海トレーニング。ホクレアの上で。

ハワイへ渡り、ホクレアと海から学んだことは生きていく上で大切なことしかない。だからどうしてもみんなに、そして子供達に知ってほしいと思ってしまう。

仲間や家族の大切さ。自然と共に生きること。地球の声を聞いて、敬うこと。勇気を出すこと。自分を信じること。言い始めたらキリがない。多分、この地球に生きるどんな人にも共通して大切なことだと思う。

高校卒業まで、長くても家族から一人で離れたのは2週間ぐらいの私が、一人で行ったこともない、よく知っている人もいない、言葉も通じいない土地へ行くことは相当の勇気だった。でももしあの時勇気を出さずにいたら、一生後悔したと思う。だから、18歳の私がその勇気を持っていて本当に良かった。それもホクレアに出会ったから経験できたこと。

ハワイに来てから、ハワイの人たちがどれだけ大きい傷を負っていたかを知った。私が見たハワイは、明るいアロハ~なだけのハワイとは違う。ハワイの人たちの深い傷は私みたいな外の人間を寄せ付けないようにするところもあった。私は言葉足らずだし、どうせ英語ではうまく伝えることもできなかったから、行動で示すしかなかった。カプ・ナ・ケイキの仲間はそれを一番近くで見てくれていた。彼らも今まで言葉が通じない子と友達になったことがなかったと思う。でもみんな海が大好きでカヌーが大好きだった。結局言葉だけでは通じないこともたくさんあった。だからこそ言葉が喋れなくてもなんとかなったと言えるし、言葉が通じる人たちよりも近い存在になった。一生付き合うと言い切れる親友以上の関係になった。

2010年から始まった、ホクレアの修繕作業。ホクレアが生まれてからで一番大きな作業となった。私は幸運にも参加できた。ちょうど初めの学校を卒業し、造船を学ぶ学校に入学したとき。それもホクレアが置いてあるMETC (マリン・エジュケーション・トレーニング・センター)にある学校だった。だから本当に朝から晩までホクレアの側にいることができた。船体の芯の部分まで削り出し、そこからアップグレードさせた。ホクレアが何でどうやってできているのかを全て見ることができた。ホクレアならどんな海も超えて行ける。世界を一周できるという絶対の信頼がある。

航海を共にした仲間はみんな家族のようになる。とクルーは不思議なことにみんな口を揃えて言う。私もそう思う。実は現在のホクレアの上は多国籍だ。アメリカ本土、タヒチ、サモア、トンガ、ニュージーランド、ミクロネシア、スイス、フランス、イギリス、中国、韓国、日本などいろんな国のルーツを持っている人たちが乗っている。特に世界航海では本当に色々な国の人たちと出会った。結局のところ、出身地、年齢、見た目、言葉、は重要ではなかった。みんな心の奥の何かが同じような感じがした。停泊した島々でも、見た目や言葉は違うけど同じような人々に出会った。私のウォッチキャプテンだったケアロハが出港前に言っていたように、世界航海で人々や国々の違いを見るんではなく、同じところをたくさん見つけたと思う。

写真:世界航海の第一レグで辿り着いたタヒチで、ハワイのクルーとタヒチの伝統航海カヌー、ファアファイテのクルーと。

ウェイ・ファインディングというナビゲーション技術を学ぶということは、人生を生き抜いていく力を学ぶことでもある。ナビゲーターは1日に何千という決断をする。小さいことから大きいことまで。小さいと思ったその決断がとても重要なことにつながることもたくさんある。それは人生でも一緒だと思う。

ホクレアと旅をして海が世界中とつなげてくれているということに気がついた。島国に住んでいると、どこか他の国へ行く時は大抵飛行機での移動になる。海が周りとを隔てているように感じる人がほとんどだろう。でもホクレアと航海してからは海があればどこへでもいけるということがわかった。

ホクレアとの全ての経験が今の自分を作ってくれた。航海カヌーなしの人生は全く考えることができない。正直、ここ数年はカヌーから遠ざかってしまうような出来事ばかりだった。だから他にやりたいことはないかと思ったこともあったけれど、私にはカヌーしかやりたいことがない。ということが今年の頭にはっきりした。そしてカプ・ナ・ケイキという言葉。この言葉はホクレアにも刻まれている。世界航海のあとに初めてこの意味がわかった気がした。子供たちは神聖。結局私たちも、今ここにあるほとんどの物理的なものはなくなっていく。続いていくのは子供達と地球だけ。そう思うと私が自分の人生でしたいのは未来のみんなに今よりもいいものをつなげていきたいということ。

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